2011年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年05月

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神戸からのメッセージ






石巻の実家で受け取った、たくさんの支援物資の中に

神戸からのおくりものがあった。

メッセージが貼られた透明の袋に入ったチョコレート。

ひとつひとつ想いを込めて丁寧に包装してくださったのだと思うと

目頭が熱くなる。

このチョコレート以外にも、メッセージ付きの物資が

いくつかあったという。

メッセージを読んで、励まされた、

ありがたい、本当にありがたいと姉は言う。

神戸の方たちは、阪神淡路大震災で大変辛い体験をして

今回の震災を他人事とは思えないのだろう。

16年前の震災を思い出して

悲しい記憶に苦しんでいらっしゃる方も多いかと思う。

だからこそ、このメッセージは心強く胸に響くのかと思う。






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今回の震災で、3月に帰郷した際に

私から姉に、お見舞い金を渡した。

4月10日に帰郷した際には

私から中古の軽乗用車と新品の自転車と中古のソファー

ヒトさんからは中古の冷蔵庫

私の前のダンナさん(なんとまあ!@_@)からは新品の洗濯機を届けた。

それから、お友だちから、姉宅の犬たちへのお見舞い金。

その他に、東京にいる姉の娘が5万円と

そのダンナさまが20万円の夫婦で計25万円のお見舞い金を届けた。

姉の娘(私の姪ですね)夫婦のお見舞い金の金額を

わざわざ書いているのには理由がある。

この二人はまだ20代。

私の二人の息子たちと歳が変わらない。

二人とも親元から離れ、遠い都会で一生懸命に働いて暮らしている。

若い二人は今年の秋に結婚式を予定していて

お金が必要なときだというのに

家計をやりくりして、こんな大金を実家のために渡したかと思うと

姉の子育ては間違ってなかったんだなあと感心する。



そして、その姉といえば

4月10日に帰ってきて、翌日の11日に慌ただしく戻ろうとする私に

おずおずと白い封筒を差し出した。


「ガソリン代にして。
 
 今回のことでは、本当にお世話になったから。

 少ないけれど、ガソリン代やレンタカー代の足しにして。」


おいおい、私が受け取る分けがないじゃない。


「何のためのお見舞いだと思ってんの?
 
 いいから、ひっこめてよ。」


そう言うわたしに、「だって、あなたも大変だから」と、涙ぐむ姉。

本当に大変なのはどっちなんだよ! と言いたくもなる。

テレビの報道で東北の人は優しいと、何人ものアナウンサーが伝える。

怒られるかと思って取材にいったら

「わざわざこんな遠いところまで申し訳ないです。」と言われたと

我慢強く、優しい人たちだと。

姉にしてからが、この調子だものね。

東北人は本当に辛抱強くて優しくて慎み深い。

普段は関東人の振りをして暮らしている私だけど

東北出身だってことをこんなに誇りに思ったことは

今までなかったかもしれない。






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| Ishinomaki | 10:13 | TOP↑

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被災地へ向うということ。






大型連休が始まった。

大変ありがたいことに、この大型連休は

被災地へボランティアに向う人が多いという。

旅行会社が企画したボランティアツアーも、あっと言う間に定員に達して

被災地のボランティア受付スタッフは、対応に追われて大変だそうだ。

私もこの連休を利用して、石巻でボランティアに参加しようと考えていたが

500人を越える人が駆けつけたので

5月8日までのボランティアは、受け入れが終了になってしまった。

『困っている人の役に立ちたい』という気持ちだけが空回りする。

ボランティアとして受け入れてもらえずに

はたして、私が連休中に石巻に帰って、何かの役にたつのだろうかと

姉に電話を入れて聞いてみると、障子を張り替えたり、襖を張り替えたり

押し入れの泥はまだ残っているし、

人の手はいくらあっても足りないということなので

実家の手伝いをするのだからと、役に立ちたいと思う気持ちを

なんとか納得させて、連休後半に石巻に向うことに決めた。







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これまでに2度、石巻に向った。

1度目は3月26日。

新宿22時発、仙台行きの夜行バスに姪と二人で乗った。

夜が明けて仙台駅に降りた時に、駅周辺が普通に見えて拍子抜けした。

静かなどこにでもある、あたりまえの朝の駅前だった。

バスを降りてすぐにタクシーを拾い、ドライバーの男性に

「石巻まで」と告げると、彼の顔が一瞬歪んだように見えた。

数秒の沈黙の後に頷いて、私たちの荷物をトランクに入れ

タクシーを走らせてくれた彼は、震災後に石巻まで行くのは初めてだと言った。

一度だけ、壊滅状態になった野蒜までのお客さんを、

乗せたことがあるという彼の、気の毒そうに私たちを見る顔が、

ルームミラーに映って見えた。

三陸自動車道に乗るために利府インターチェンジに向う途中で見た街では

ブルーシートが屋根に乗っている家がちらほら見えたが、

そんなに数は多くなかった。

利府インターから自動車道に乗って、道路の両脇に見える

山あいの松島の家並みも

崩壊しているところはなく、私の目からは普通の町に見えた。

石巻港のインターを降りてからもそうだった。

「地震は本当に起ったの?」と不思議に思うほど

いつもの見慣れた風景だった。

だから、深刻な被害なんて、なにかの間違いなんじゃないかと

一瞬、本気でそう思った。

何かの間違いでありますようにと祈るような気持ちだった。

だけど、やはり現実だった。

タクシーが仙石線の線路を越える陸橋を渡った途端に、その風景が一変した。

左手に見える田が、まるで湖のようになっていた。

海から数キロも離れているはずの交差点に、船が打ち上げられていた。

パチンコ店『ダイナム』の交差点を左折して石巻市に入り

国道45号線を市街地方向に進むと道の両側には泥と瓦礫の山。

積み重なって放置されたおびただしい数の車、倒れた電柱。

店舗の割れたガラスや崩れた家が次々に目に飛び込んで来た。

思わず息を飲んだ。



この街は、津波に襲われた。



私が安穏と毎日を送っている首都圏の街とは、

まったく違う街並だということは、言わずもがななのだが

同じ宮城県の、他の石巻周辺の町と、あきらかに違っていたことが

とてもショックだった。









2度目は4月10日。

二男が運転するレンタカーのトラックの後ろを

姉に渡すための軽乗用車を運転して、東北道を走った。

栃木県を過ぎて、福島県に入ってから

道路が補修の跡で、でこぼこ継ぎ接ぎだらけになっていた。

スピードを出すと車がバウンドしてハンドルをとられて恐い。

東北道を北上して仙台に近づくにつれて

災害派遣と書かれた自衛隊の車両が多くなる。

戦争も知らないくせに、戦地に向うような錯覚に囚われる。

大型トラックやタンクローリー車にも災害派遣、被災地支援の文字がある。

三陸自動車道に入って石巻が近づくと、その数はさらに増える。

否応無しに、被災地へ向っているんだと思い知らされる。






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市街地へ入る国道の信号はストップしたままで灯りを失って

警察官の手信号で街へ迎え入れられる。

津波は残酷だ。

被害のあるなしが、波の押し寄せた地点でくっきり線引きされる。

それまで、普通に見えていた風景が

「ここから先は被災地よ。」とでも告げるかのように

ある線を越えるとがらっと様変わりしてしまう。

日常ではお目にかかれない、たくさんの自衛隊の車両や

災害支援の車の数や、マスク姿の人々。

多くの日本人が安全だと信じて暮らしている、通常の日本とは

明らかに違っている光景に衝撃を受けるのは

私が石巻を故郷としているからだけではないと思う。





私は石巻で撮ってきた写真を、こうしてブログにアップする度に

胸が痛く、いまだに涙がこぼれる。

気持ちを文章にすることも辛い作業だ。

おそらく、多くのこころ優しいボランティアの方たちや、

頼もしい災害援助のスタッフの方たちや自衛隊の方々も

被災地にまったく家族や親戚や友人がいなくても、

被災地が故郷ではなくても

この光景を目にして、心を痛め、涙していると思う。

普通に暮らしている私たちが知っている日常と、あまりにも違う現実に

呆然として、同じ日本人として、同じ人間として悲しんでいると思う。

亡くなられた方たちの魂を祈らずにはいられないし

普通に暮らせる自分を申し訳なく思うし

(思う必要がないとの主張もあるが、申し訳なく思うのが当たり前の心情かと思う。)

そして、自分が生きていることに感謝をするのではないかと思う。





震災報道をテレビで見ていた多くの人が

力になりたいと、連休を利用して被災地へ駆けつけている。

駆けつけてくれた多くの人が、テレビの中だけではなく、

実際にこの光景を目にして、同じように悲しんで涙してくれるのだなあと思うと

本当にありがたくて、本当にうれしい。

現実を肌で感じて、自身の心を痛めながらも

被災地の方々の心に添ってくれる方が

一人でも増えることは本当にうれしいことだと思う。

そして皆が無事で、石巻を後にできることを心から願わずにいられない。




今回の震災では、全国の皆さんからの救援物資をいただいたり

炊き出しや、泥出しなどのボランティアの方たちの

救援や応援を間近で見ていた姉が、

「本当にありがたい。

 こんなにたくさんの人たちから助けてもらって、

 本当に感謝している。」と、何度も私に言う。

石巻を故郷に持ちながら、何も出来ない自分を

やはり、恥ずかしく思ってしまう。

だから相変わらず、私に出来る事を探す毎日が続いている。






| Ishinomaki | 13:49 | TOP↑

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被災地格差と温度差と。







一昨日の夜、

大崎市に住む、高校時代の友人から電話。

この友人も私と同様に高校卒業を機に石巻を離れていて

現在は大崎市の不動産会社に勤めている。






私の周りでは、亡くなった方あり、行方不明者あり。

我が家のライフラインは、比較的早く復旧したので、

食事・お風呂の提供を身近な方達にしていた。

大崎市から委託された住宅情報・生活情報提供の

窓口の責任者として仕事をしていていたが、震災後は、被災者への

応急仮設住宅の紹介などで忙しい毎日だった。

最近は、石巻や東松島の被災者への住宅紹介が増えて来ている。

石巻の被災者は可哀想だ。

市が人口減を恐れて、市外に家を求める被災者に援助金を支給しない。

会社のドアを開けて入ってきた瞬間から、この人は被災したと分かる。

疲れ切った顔をしている。

まず、話を聞く事から始める。

涙を流す人もいる。

「そうですか。辛いですね。」と

話を聞く事も仕事のひとつだから、最後まできちんと話を聞いて

できるだけ条件のいい物件のお世話をするけれど、本当に可哀想だ。







石巻は広い。

被災面積、死者・行方不明者数、全半壊・一部損壊の建物数は

全被災市町村の中でダントツの1位だ。

「とんでもないことで1位になってしまったもんだね。」と

友人と電話口で、お互いに深いため息。

とんでもないことで1位になってしまったおかげで

市側の被災者への対応が、何もかも遅れている。

石巻の民間の賃貸の空き家は震災発生後まもなく、満室になってしまった。

頼る身内もなく、たとえ身内があっても、

身を寄せる方も、身を寄せられる方も疲れきってしまった。

避難所での生活も限界にきている。

仮設住宅の建築もなかなか進まない。

義援金の配分もまだまだ行われない。

たとえなんらかの、補助が受けられるとしても罹災証明が必要だ。

その罹災証明だって、1日1,200人の大行列で整理券発行の

順番待ちだもの必要書類が受け取れない。

第一、役所に行く足がない。

車もバイクも自転車もなく、公共の交通機関もないのに

どうやって役所に書類を取りに行ったらいいのか。

生活の基盤がある石巻から出て、他市への移住は、

悩んで苦しんで疲れ果てての決断だと思うのだが

そうした人たちが、入居の際の補助も受けとれないとは。

生活の全てを失ってしまった人たちに、どうやって家賃を払えというのだろう。

被害があまりにも大き過ぎて、1自治体では対応が出来ないのだろうから

早急に国が、他市町村へ移住する被災者の家賃を補助する制度を

立ち上げてほしいと思う。

書類なんて、生活が落ち着いた後でいいからという

柔軟な制度を超法規的措置で設けてほしい。

あちらこちらにパフォーマンスで視察をしたり

やたらめったら対策本部を立ち上げて会議ばかりしてる暇があるのだったら。

政権交代なんて、揉めてる暇があるんだったらね。








今日掲載の写真は前回の続きから。4月11日に撮った写真。

牧山トンネル前の交差点、国道398号を内海橋方向へ。

大門崎山付近で道路の陥没冠水のため引き返し

牧山トンネルを抜けて不動町、石巻大橋を渡った。





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自衛隊の配給に並ぶ人たち。
友人の話では,石巻の市街地は配給も炊き出しも
十分にあるから、まだいいのだそうだ。
そういえば、私の姉一家の住む実家も市街地にあるために
配給も十分にあって、近所では炊き出しが毎日行われていた。
配給や炊き出しがない地区と、ある地区の格差が激しいらしい。




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11日の時点では、市内の信号の大半が
ダウンしていた。
この交差点にも、手信号の警官の姿が。




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国道398号は女川や牡鹿半島へ向う主要幹線道路だ。
陥没浸水の箇所の復旧作業をする方たち。




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断るまでもないが、この住宅街へ延びる道路も
アスファルトの舗装道路だ。
決して未舗装の道路ではない。




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墓地の山の斜面を駆け登って助かった人も
多かったのでは。




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牧山トンネルを抜けてすぐ。
不動町の災害対策本部の看板。





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配給が行われていた。




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石巻大橋手前の交差点。
ここも警察官の手信号。




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大橋の上から住吉方面を望む。





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『被災地格差』の象徴的なのが上の2枚の写真だ。
上の写真は、大橋のたもとから進行方向左手の住吉、
下の写真は進行方向右手の大橋・水明の街並。
同じ場所から写している。
1本の道路を隔てて、被災した町と
被災を逃れた町が向かい合っていた。
片側はゴミと泥だらけで、もう一方は
何もなかったかのように穏やかな町が広がっていた。

この町内や、やはり被害の少なかった蛇田地区の住民は
なにかにつけて、被害に遭われた方々から
「あんたのところは、いいさ」と言われるのだそうだ。
「水が入ってこなかったから、いいさ」
「家があるからいいさ」と。
そういえば姉も、矢本の友人に泥の話をしても、
ちっとも分かってくれないとぼやいていた。

何かにつけて言われる方も、たまったものではないと思うが
「家がなんともなくて、いい」のは事実なのだから
言われることを、黙って聞くという、思いやりの気持ちも
生まれているそうだ。
1本の道路を隔てて、明暗の差がくっきり分かれている市内では、
助け合うい精神が自然に生まれ、ご近所との繋がりが
深くなったという。





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震災後、2度石巻へ行ったが
営業しているファミレスを初めて見た。
看板の灯りは消えていたけれど
店内は明るくて、中には人影が。




一昨日の深夜の友人との電話で、

「実は…」と、愚痴を漏らしてしまった。

「最近、家に引きこもっているの。こっちの人たちと会話したくなくてね。
 
 震災のことを話しても、聞き流されちゃうし

 別の話題を話す気にも、聞く気にもなれないから。」

「温度差ってやつね。」と、友人。

「仕方ないよ。私たちだって阪神大震災の時は

 どこか人ごとだったから。

 自分に関係がないと、やはり、わからない。

 石巻に縁のある私たちは、石巻のことを想って

 私たちのできることをするしかないんだよね。」

そう言って、「身体に気をつけて」と、友人は電話を切った。




震災から50日近くが経って、テレビの番組編成が

だいぶ通常に戻った気がする。 

ACのCMも減って、他のCMが増えた。

バラエティー番組も、連続ドラマも始まった。

キャンデーズのスーちゃんの死は、

私にも、とてもショックで悲しい出来事だったけれど

スーちゃんの報道が、震災報道より多かったのには

そっちの方が悲しくなった。




私は震災発生以来、絵画教室に行けていない。

アトリエの方たちにの中に、被災地の縁故関係のある者がいない。

おそらくアトリエで交わされるのは、いつもの会話だろう。

何を食べ、何を買って、何処へ出かけたか。

そして、人ごとのような震災の話題。

いつもは、自分を騙し、適当に相づちを打ち

話題に合わせている私だが、今の私には、それが出来ない。

「ちがう、ちがう!」とこころ騒がせながら絵は描けない。

だから、アトリエには行かない。



 

最近、『被災者の自助努力』という言葉を耳にする。

被災者にも自助努力が必要だって。

他府県に空き家が、ごまんとあるのだから

移住して職を探せと、乱暴な声も聞こえる。

そんなことを、声高に言っているやつは

着の身着のまま、裸足で、あの場所に立ってみるといい。

全ての物が流されて、探しようも、見つかりようも無くなった

泥と瓦礫だらけの、あの街に立ってみるといい。

誰かの手助け無しに、立ち上がれるわけがないじゃない。




あらためて、己のどうしようもない無力さを感じる。

今の私に出来る事って、何が残っているんだろう?

何をすればいいのだろう?











| Ishinomaki | 12:33 | TOP↑

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震災ゴミとか、開かない引き出しとか、そんなこと。








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姉が暮らす実家のある、石巻市大街道北近辺の

関東東北大震災の津波の被害は床上浸水だった。

家の倒壊や流失は免れたけれど

ほとんどの家が泥水に浸かった。

この泥水が非常に臭い。

臭いぬるぬるとした真っ黒な泥が、家の中のありとあらゆる場所に、

隅から隅まで入り込んで驚くほどだ。

家の中の泥なんて、完全に取り除くのは不可能だわと

絶望的な気分になるほど、泥との闘いはまだまだ終わらない。

泥水に浸かった家の中のものは

プラスチック製品や陶器以外の大抵のものが使えなくなる。

今月10日に帰郷した際には、実家の近くのゴミ集積場は

震災発生以降、ただの1度も災害ゴミの集積が行われずにいて

各家庭から出たゴミで巨大な壁が出来ていた。





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震災から1ヶ月経って、生活ゴミの集積は始まっていたけれど

震災ゴミの方は手のつけようがないらしい。

震災ゴミの巨大な壁は、家の片付けが進むにつれて

延々と成長を続けるのか、それとも集積が始まって

きれいさっぱり無くなって、元の静かな住宅街に戻るのか

次回に帰郷する際に、どちらに転じているか

想像すると、ちょっとワクワクする。

不謹慎かもしれないけれど

そのくらいの帰郷の楽しみが許されても良いような気がする。






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実家に残った数少ない家具のひとつが、茶の間に置いてあった茶箪笥だ。

茶箪笥の引き出しは縦に3つと、下部に横に並んで4つ。

その引き出しが開かない。

縦に並んだ引き出しのうち、一番上の引き出しの取っ手が取れてしまった。

皮肉なことに、取っ手の取れた引き出しだけが開いて

残りの6つの引き出しが開かない。

中に入っているのは、姉のお気に入りの

銘々皿やら湯呑み茶碗やら、ティーカップなど。






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「茶箪笥、使えないのにどうするの? 壊して食器だけ使うの?」


「ううん、このまま飾っておくの。」


「飾っておく…?」



「うん。 
 
 いつか、私が死んで孫子の代になったときに
 
 お祖母さんの茶箪笥に何が入っていたんだって
 
 開ける時がくるでしょう?
 
 壊して開けた時に、カップと一緒に泥水が流れてくるの。
 
 まだ見ぬ孫へのプレゼント。
 
 あの時の津波の泥水か~って、笑えるでしょう?」



「浦島太郎みたい。」




家の中の泥出しはまだまだ終わっていないし

床の張り替えや、傷んだ台所や洗面所・風呂場の修理、床下の消毒やら、

やらなくてはいけないことがまだまだあるけれど

義兄も甥も姉も、仕事が始まって忙しい日常が戻ってきた。



「浦島太郎の玉手箱の中身は津波の泥でした。」



うん、そうだね。

それも悪くないかもしれないね。











 

| Ishinomaki | 10:52 | TOP↑

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被災地に降る雨と、泥とか匂いとかそんなこと。





昨日は断続的に大粒の雨が降った。

土砂降り時々晴。

被災した地域にも大量の雨が降ったのだろうか。

地震で緩んだ地盤の土砂災害が心配だ。





石巻にも降ったのだろうか。

姉に電話をすると、ついつい長電話になってしまうので

ここ数日は電話を入れていない。

3月26日に帰郷した時には津波が運んできた泥が

車道にも歩道にも厚く残っていた。

春の雪が泥の乾きの邪魔をして、ずぶずぶとぬかるんで

長靴が無ければ歩けなかった。

2度目の帰郷となった4月10日には、実家周辺の車道も歩道も

泥の除去が済んで、ガードレールや歩道の縁石に添って

延々と泥の山が築かれていた。

昨日の雨で、この泥の山が融けて崩れてはしないだろうか。

泥がまた道路一面に広がって、ぬるぬるになってやしないだろうか。

やっと乾いた泥が、昨日の雨でずぶずぶ濡れて

今日の天気で、また乾かされる。

濡れた泥の匂いと、乾いた泥埃の匂いは

どんなに頑張って表現しても、文章では伝えられない。

海の砂や建物やガソリンやトイレの汚水や生活排水や

製紙工場から流れ融けた原紙など、様々な生活物質と

人々の記憶が混ざり合った泥の匂い。

この匂いを伝える術を持たないことも、

石巻のことを伝え切れないもどかしさのひとつだ。



「臭い」



ひと言で表現してしまったら身も蓋もないけれど

異様な臭気と格闘している人たちがいることを知ってほしいと思う。

まだまだ、マスクは手放せないだろうなあ、

これから暑くなったら大変なことになるなあと心配になる。

昨日大量に降った雨が、全ての泥を洗い流してくれればいいのにと

夢のようなことを本気で思って、また切なくなる。






今日掲載の写真は前回の続きから。4月11日に撮った写真。

雲雀野から日和大橋を渡って県道240号須賀松、明神町

水野食品第二工場前交差点を左折

松並の町内を左手に見て国道398号方面へ進んだ。





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多くの水産加工場が集まっているこの地域。
海に向って北上川の右岸(工業港側)と同様に
左岸の漁港側の被害も甚大だ。



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骨組みだけになってしまった建物を修理する男性の姿が。
再建への、希望がここにもある。




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日和大橋を渡ってすぐ、車を停車して写真を撮っていたら
歩いて来た男性に「乗せて欲しい」と頼まれた。
80歳のお年寄り。
「こだまホスピタル」からの帰り道で、この先にご自宅があるという。
声を掛けられた場所から、4キロは離れているのではないだろうか。
ご自宅からはおそらく5キロ。
往復10キロの道のりだ。
80歳の身体ではキツイだろう。
「さすがに疲れて歩けない」とひと言。





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「ご自宅の被害は?」
「1回はめちゃくちゃ。2階で暮らしている」
「ご家族はご無事でした?」
「津波のあった時には娘の家にいた。
 幼稚園の孫を抱いて、田んぼの1本道を
 全速力で死ぬ気で山の方へ走った。
 全員無事だったけど、娘の家は流されておじゃんだ。」

返す言葉もなかった。




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「ここでいい。」と、男性は水野食品工場の前で車から降りた。
80歳のおじいちゃん。
住宅街の方に向わずに工場の方に消えて行った。
無事に家まで帰っただろうか。
どうかお身体を大切にと、祈らずにはいられなかった。




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「ファッションセンターしまむら」緑町店も
見るも無惨な姿に。



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壊れた車の荷台に網と魚があった。
流れて入ってきたものか
それとも漁師さんの車だったのか
干涸びた魚の姿が悲しかった。




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信号も色と光を失った。





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実家への応援が一息ついたので

中学生の時からの2人の友人の家族へお見舞いを送った。

2人とも結婚を期に石巻を離れている。

1人は母親が石巻で被災して、仙台の妹の住まいへ身を寄せることになった。

住めなくなった石巻の家は賃貸だったので、引っ越しをする決心をしたそうだ。

もう1人の友人の両親は、数年前に亡くなっていて

実家そのものは石巻には無かったが、

妹と弟がそれぞれに家庭を持ち石巻に住んでいた。

壊滅した門脇に両方の家があり、

今は、弟一家がお嫁さんの実家に身を寄せ

妹一家が友人の家に身を寄せて暮らしている。

私と2人の友人たちは、それぞれ石巻に帰郷した際には

3人で石巻の街角のお店や実家で会って話に花を咲かせた。




友人が2人とも石巻に帰る場所を失ってしまった。

2人とも、どうしようもない喪失感があると言う。

私も同じだ。

実家は残っているけれど

故郷石巻への、どうしようもない喪失感がある。




今朝その話をヒトさん(ダンナ様のこと)に話したら

「俺にもその気持ちが分からなくはないけれど
 
第三者から見たら、逃げた方がいいんじゃないかって思う。」

と言われた。



ため息がでた。

どんなに話しても伝わらない。

蹴飛ばしてやったろうかっ! と思ってしまう。

故郷というものは、大切な心のよりどころなのだ。

いつでも帰りたい時に帰れる場所であってほしいのだから。

何年かかっても必ず再建することを信じて毎日を送っているのだから。







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