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悲しくて、涙とまらなくて、逃げ出した。





先月のボランティア先でのこと

今まで書きたかったのに書けなかった。

1カ月近くたって、やっと書けるような気がするので

今日、書こうと思う。



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3月25日の野蒜地区での被災された方々との

交流会が行なわれた会場である仙石線野蒜駅は

8年前に他界した国鉄職員だった父が、生前赴任した駅のひとつだった。





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私がまだ、中学生だった頃

父は野蒜駅の助役として、この駅で働いていた。

実家のある最寄り駅から仙石線で20分程度の駅だったけれど

当時の国鉄では、助役以上の役職の者には

官舎を借りて、赴任先の駅付近に住み

地域の人達との交流を深めることが推奨されていたらしく

父もそれに従って、駅近くの官舎を借りた。

野蒜は海水浴場があったので

父の赴任中は、私も、官舎に寝泊まりをして

野蒜の海で遊んだ。





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確か線路の左側

茶色の家が在る辺りに、その官舎があった。





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これは、昨年の5月

震災発生から2カ月後に撮った写真。





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野蒜駅のホームから撮った。

壊れた家々や、庭に飛び込んだ車に

ただただ

「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」と

驚くばかりだった。





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先月には、壊れた家のほとんどが撤去されて

無くなっていた。





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この場所は松林だった。

子供の足では、駅から海岸まで遥か遠く

とても遠かったものだったけれど

幅広の松林が、真夏の光を遮ってくれたおかげで

へこたれもせずに、海岸まで辿り着けた。

鬱蒼として、青々としていて

静寂に包まれていた松林が、今、何処にも無い。




カメラを向けることが出来なかったけれど

更地のあちらこちらに

手向けの花が置かれていた。





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野蒜の駅舎は、父が働いていた当時のままではなくて

鉄筋の頑丈な駅舎に建て替えられていたけれど

1階は、ことごとく破壊された。

無事だった2階の事務室で、交流会は開かれ

住民の方々から手厚い歓迎を受けた。

会の閉め括りで、歌を皆で歌うことになった。

会の代表者の先生(本職が高校の先生なので)が

バイオリンを取り出した。

曲目は『ビリーブ』と『ふるさと』。

歌い出してすぐに、涙が出てきた。

みっともない!

そう思ったけれど、次から次へと涙が溢れて

どうしても止まらない。

和気あいあいと皆が歌うその場所で

涙を見せてはいけないと思い

下を向いて、ドアに向って走って、会場から逃げ出した。




ボランティア仲間にしてみれば

野蒜は被災地のひとつであって、心を込めて応援したい場所なのだ。

住民の方々にすれば、野蒜は、今後も住むと心を決めた

故郷であり、戦いの場であり、未来への希望の場でもある。

私は、単なるノスタルジアに支配されてしまった者であり

私の悲しみなど、取るに足らないちっぽけなもので

だけど、私にとっては

子供時代のキラキラ輝いていた夏の日の、眩しい光と大好きな父が

この地上の何処にも、探しても、探しても

見つからないのだと

目に映る荒れ果てた地に、思い知らされ

「会いたいよ。会いたくてたまらないよ。」と

涙が溢れ出て、とても『ふるさと』など、歌う気持ちになれなかった。




私はなんと中途半端な存在なのだろう。

被災者ではなく、そして、ボランティアに徹することも出来ない。

ノスタルジアから解き放たれ

いつになったら、あまっちょろい感情から

抜け出すことが出来るのだろう?






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