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『涙の抗議文』







鮎川ボランティアツアーの視察最終目的地の

南三陸町志津川。





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南三陸町全体の死者・行方不明者数は1,206人

志津川地区の罹災率は75%という、甚大な被害を受けた。





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この鉄骨だけになった建物は、震災直後にテレビなどで

盛んに報道された防災センター。

震災被害の象徴となる建物で、入り口前には祭壇が設えてあった。





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屋上に逃げた十数名が波に呑まれて、波が引いた後には

アンテナに上った数人しか残っていなかった映像を

ご記憶の方も多いかと思う。








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この防災センターを訪れて、私が思ったことを

私の文章力で、誰ひとりとして失礼の無いように

書いて残せるのか自信はないけれど、以下に書きたいと思う。

決して特定の個人を非難しているのではないことを

分かっていただけたらと思っている。





震災直後には、屋上に逃れた職員の方々と

町長が犠牲になった映像の他に

一人の若い女性職員が命の危険も顧みず

最後まで町民のために、防災無線のマイクを通して避難を呼びかけ

津波の犠牲になったことが、あちらこちらのメディアで取り上げられた。

私自身、この防災センターの建物を前にした時には

町長と職員の女性が亡くなられた場所という認識しかなかった。

祭壇の前で手を合わせて深く祈りを捧げた後に

ふと祭壇の下に目をやると、1通の手紙が広げられ

風に飛ばされないように置いてあって

その内容を読ませていただいて驚き、そして悲しくなった。





それは年若い息子さんを、このセンターで失ったご両親の抗議文だった。






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「防災センターという、災害時には中枢を担う施設を

 こんな川の傍に建てるから

 職務に忠実な息子は、赤ん坊と妻を残して死んだ。

 それなのに何故この建物を撤去しないのか。

 この前を通る度に胸が張り裂けるようで苦しい。

 町はこの残骸を早急に撤去して、他の瓦礫撤去も進めるべきだ。」





細部までは記憶できなかったので、違う部分があるかもしれないけれど

大体はこのような内容だったと思う。




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このセンターの鉄骨は、メモリアルとして

町が保存しようとしているらしい。

保存の動きにご遺族の心情はいかがばかりかと思う。




職員の方々は、皆同じように職務に忠実に

あの日、必死になってここで働いていた。

誰一人、町民の安全を願わなかった者なんていないと思う。

皆、同じように戦っていたのだと思う。

だから、誰が英雄で誰が英雄じゃないなんて

そんなことは決してないと思う。

ひとりひとり、みんな大切ないのちだったのだから。

誰かひとりだけを特別視することなく

ご遺族のお話を、ひとりひとり平等に聞くことが出来ていたら

ご遺族の哀しみは、わずかだけでも安らぐのではないかと思う。

保存の動きに苦しめられることが、少しでも和らいでいたのではないかと

そんなふうに思う。

皆、同じ大切ないのちだったのだから

少しでも多くのご遺族のお話に、私たちは耳を傾けなくては

いけないのじゃないかなと、

そしてこの悲劇を次代に語り継ぐためには

美談を作ることなく、事実をありのままに

伝えなくてはいけないのじゃないかなあと思う。




赤ん坊を残して、無念の侭にこの世を去った若い父親と

そのご家族に安らぎが訪れる日が来る事を願って

祭壇に向ってまた手を合わせた。







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昭和35年のチリ地震津波。

この津波には故郷石巻も襲われていて

私は私の親の世代の人たちから、聞かされて育った。

誰もが津波の怖さは知っていたのに

教訓が何も役立たないほどの大津波だった。




「仕方がなかった。」




40名が犠牲になった防災センターの前を流れる川の

川面を見ながら、泣き出したくなるのを必死で堪えながら

そんな言葉で終わらせてはいけないなあと、

心から、そう思った。







※お世話になっているチーム東松山での今後に活動のひとつに
被災した方々からの『聞き書き記録』があります。
まだ始動したばかりで具体的なことは分からないのですが
私は何らかの形で参加・協力したいと思っています。

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