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2年前の3月11日、あの日





2年前のあの日の朝

私は新宿ルミネの『Afternoon Tea』で、

前日に買い求めた物の写真をアップし、

それらについて、ちょっとした文章を添えた

実に安穏とした内容のブログ記事を更新した。





20130311IMG_2400.jpg

その後、正面からパソコンに向かい仕事を数時間した後

その頃に通っていた絵画教室へ出かける準備をしようと

パソコンの前を離れた、その時だった。

突然、部屋の中が大きく揺れ出した。

「地震だ!」

そう気づいた時には、床に立っているのがやっとの大きな揺れになっていて

私は、パグズの入っていたケージに捕まり

ケージを机の前まで引き寄せて、机の下に潜るのが精一杯だった。

あの時の揺れは、今まで体験したことのない本当に大きな揺れで

しかも長く続いたので、私は決して大げさではなく、死を意識した。



それなのに、大きな揺れが治まった後に私が一番に取った行動は

棚から落ちた、陶器や本を片付けることだった。

片付けている最中に、また大きな揺れがあり

その揺れが治まった後に、私は家の中にいることに恐怖を感じて

パグズを連れて外に出た。

外にはご近所の方が数名いらして、その方たちと話している間にも

電線がゆさゆさ揺れていた。

やっと揺れが治まったような気がしたので

ご近所の方と別れ、家の中に入ってから

私は、やっと震源地はどこだ? ということに思い至ってテレビを付けた。

画面には、東京お台場の映像が流れ

フジテレビの建物のすぐ裏手で、火の手が上がっていると伝えていた。

まだまだその時点では、のんびりしていた私だった。

アナウンサーが「震源地は宮城県沖」と告げた時点から

私の長い、本当に本当に長い2011年の3月11日が始まった。





20130311IMG_2401.jpg

慌てて携帯電話を手に取り、石巻の姉に電話をした。

しかし電話は「お掛けになった電話は現在混み合っております」の

アナウンスを繰り返すだけだった。

甥に掛けても、姪に掛けてもそれは変わらなかった。

私はリビングのテレビの前に、パグズのリードを持ったまま座り込んで

テレビを見続けた。

テレビでは続々と新しい情報を流してした。

東京・九段会館の天井が落ちたこと、

八王子のスーパーの駐車場の入り口スロープが落ちたこと

東京湾のコンビナートが炎上したこと、等々。

そうしているうちに、ヒトさんから連絡が入ってきた。

新宿駅に居る、電車がちっとも動かない

高層ビルがゆさゆさ揺れていた

いったい何が起きた?

返事には、こう返した。

どうやら、すごい地震だったみたい。

電車は待っていても、動かないよ。




20130311IMG_2403.jpg


テレビでは、津波警報を流していて

アナウンサーが必死で非難を呼びかけていた。

そして、八戸港(だったと思う)の津波の第一波の映像が流れた。

それでも私は、今から思うと信じられないけれど

まだまだ呑気に構えていたのだ。


辺りが暗くなってきた頃だったと思う。

テレビでは、気仙沼の大火災の様子を伝え始めた。

それでも私は故郷石巻が津波に襲われているとは、考えていなかった。

夜半過ぎだったと思う。

テレビでは仙台の荒浜地区の被害を伝えていた。

そして、仙台では内陸8キロ地点まで、波が押し寄せたと。

そこで私は、やっと悟った。

仙台で内陸8キロまで、水没してしまったのなら

石巻もダメだっただろう。

海から3キロ地点の実家も水没してしまっただろう。

姉や義兄や甥、姪は生きているのだろうか?

電話は何度掛けても繋がらない

テレビからは、石巻の情報がただのひとつも流れない

生きていて

お願いだから生きていて

それだけを思って

テレビの前で毛布に包まり、まんじりともせず夜を明かした。

夜が明けて、NHKのヘリからの映像が流れた。

石巻の沿岸部を舐めるようにヘリは飛んでいて

その光景は、故郷の見知った街の姿とは思えない

変わり果てた姿だった。



姉と連絡がとれたのは、震災発生から4日後のことで

私はその4日間は、私自身が生きていた気がしていないのだ。

もう二度と味わいたくはない4日間だった。





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あれから2年経っても、被災地へ行く度に被害の甚大さにため息が出てしまう。

津波に破壊されたものは、だいぶ撤去されたけれど

復興は、まだ何も終わっていない。

むしろ、始まってすらいない。

それなのに、遠く離れた場所では、

「オリンピックで日本を元気にしよう!」などとの声が掲げられている。

確かにオリンピックで日本は元気になるけれど

では、被災地は? 

そんな気分でやりきれなくなる。

しかし一方では、私の毎日はとっくに震災を通り越してしまった。

何も無かったように、安穏と

あの日の午前中が、そのまま飛び越えてしまったかのように

暮らす日々なのだ。


だからこそ、忘れたくはない。


もちろん自然災害はあらゆる場所で起こっていて

東北だけが被災地ではないのだけれど

私たちがいまだかつて経験したことのない大震災を

終わったことにはしたくないなあと、いつも思う。

2年前の3月11日と、それに続く4日間のあの時のことを

思い出すと、今でも胸が締め付けられ泣き出したくなるが

あえて、それを思い出し、書いてみることが

私への戒めになるかもしれないと書いてみた次第である。




今日に先立つ3月9日は

隣市で開催されている『その日を私たちは忘れない』という

チャリティーイベントの内のひとつ

『民俗芸能でつながろう』という演目を観に行った。

被災地のひとつである、大船渡の「小通鹿踊り」は

それはそれは力強い踊りで素晴らしかった。

今日3月11日は、同じイベントの会場で

販売ボランティアスタッフとして、被災地の物産品の販売の

お手伝いをする予定だ。


できるとき

できることを

できるだけ


それだけでいいのかな? と思い

けれども、それでいいんだよね、とも思う。



あの震災で亡くなられた方がたの魂に

謹んでお祈りを捧げたいと思います。







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